「意味」のあるなし

 

日々、ゲームや物作りや作品鑑賞、読書など、

いろんな小さい趣味を楽しんでいますが、

 

しばしば…

「私はそんなに器用にできないから、いいなぁ」

「それを作って、売るわけじゃないなら、何になるの?」

などのご意見もいただきます。

 

そんな時に私が思うのは、

「好きなことの価値を決められるのは、やっている自分自身だけ」

ということです。

 

大人になると、

何事にも「意味」を求めてしまいがちです。

 

確かに、時間も体力も限られていては、

やりたいことをすべてやるわけにもいきませんから、

どうせやるなら「意味」のあることを…

という選択になることも多いでしょう。

 

運動をするなら、

体力がつくこと、良い汗をかくこと、

筋肉がつくこと、痩せること…

 

物を作るなら、

実用性があること、

人に褒められるくらい上手であること、

売って収益が得られること…

 

など、先に何らかの期待や目的をもって

取り組むかどうかを考えてしまうのかもしれません。

 

もちろん、それらがあってこそ

立てられる目標や、利益もあるでしょう。

 

しかし、それはあくまで、

やる前から他の何かと比べた相対的な価値の話です。

 

意味を価値と捉えて言うならば、

自分自身が本当に価値を感じられるかどうかは

「やってみないとわからない」のです。

 

 

私は、実家に帰省した際によく

姉に誘われ、山に登ります。

 

山登りは特に、

経験した人と、したことのない人とで、

大きく印象の違うものではないかと思います。

 

山登りが好きな人が、未経験の人に

良さを伝えようとするとき、

「空気がおいしいよ」

「悩みが小さく感じられるよ」

「景色が綺麗だよ」

などと、自分の感じたことを伝えるほかありませんが、

 

これを受けて、いざやろうとする時、

「さぞかし空気がおいしく感じられることだろう」

「きっと山頂に着く頃には、悩みが解消されているだろう」

「写真で見る以上の感動があるんだろう」

と、言われたままの期待を抱いていると、

 

「なんだ、全然そんな事なかったじゃないか」

と感じてしまうこともあります。

(そもそもが、体力を必要とする過酷なものでもありますからね。)

 

逆に、事前に人から聞いた感想とは

まったく違う所で何かを感じたり、

妙に記憶に残ったりすることもあるでしょう。

 

何かを得て帰ってこられたか、

ただ疲れただけだったか。

 

その時々、各々の中で

感じることは様々ありますが、

 

一つ言えるのは、

やる前の自分と、

やった後の自分とは

もはや違う存在である、ということです。

 

「楽しかった」も、

「しんどいだけだった」も、

やる前に見ていた相対的な価値ではなく、

自分の中での価値に変化しています。

 

同じ山に登ったとしても、

同じ物を作ったとしても、

自分だけの経験であることに違いはないのですから、

 

「それに何の意味があるの?」

「他の人が、もっと上手にやっていたよ」

と言われたとしても、もはや関係はないのです。

 

あえて意味を問うならば、

他人を納得させるだけの理屈はなくとも、

自分自身を形作る輪郭線の一部になる、

と言えるでしょうか。

 

やってみたいな、

やっていて楽しいな、続けたいな…

なぜかわからないけど、またやりたいな。

ただただ、この時間が好き。

 

理由は説明できなかったとしても、

そんな風に、好きな事に心動かされながら

生きていきたいと、私自身、常々思っています。

 

花

 

 

投稿者プロフィール

中根春奈
中根春奈
誠実さと敬意をもって、知ること、考えることを大切にしています。

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